「攘夷」という言葉は、日本史、特に江戸末期から明治維新にかけて頻繁に登場します。しかし、単に「外国人を排除する」という表面的な意味だけで理解している人も少なくありません。本記事では、「攘夷」の意味、歴史的背景、具体的な出来事、影響、現代における理解まで詳しく解説します。
1. 「攘夷」の基本的な意味
1-1. 言葉の定義
「攘夷」は、漢字の意味からも理解できます。
「攘」:追い払う、排除する
「夷」:外国人、異民族
つまり、「攘夷」とは外国の勢力や異民族を排除することを意味します。江戸時代末期、日本国内で外国勢力との接触や貿易を制限しようとする運動の中心的スローガンとして使われました。
1-2. 現代における意味
現代では、「攘夷」は歴史用語として使われることが多く、日常会話ではほとんど登場しません。ただし、政治や歴史の文脈で「外国勢力排除」の意味を理解する上で重要な概念です。
2. 「攘夷」の歴史的背景
2-1. 江戸時代後期の国際情勢
江戸時代末期、日本は鎖国政策を採用していました。長年にわたって外国との交易は制限され、特にオランダや中国との限られた貿易のみが許されていました。しかし、19世紀半ばに西洋列強がアジア進出を進め、日本にも接触圧力がかかるようになりました。
ペリー来航(1853年)
日米和親条約(1854年)
不平等条約の締結
これらの国際的圧力に対し、日本国内で「外国勢力を排除すべきだ」という攘夷思想が広まりました。
2-2. 尊王攘夷運動との関係
攘夷思想は「尊王攘夷運動」として結実しました。「尊王」は天皇を尊ぶ思想、「攘夷」は外国排除を意味し、この運動は幕末の政治運動の中心となりました。特に長州藩や土佐藩などの志士たちは、攘夷を掲げて幕府や外国勢力に対抗しました。
3. 「攘夷」の具体的な出来事
3-1. 外国船砲撃事件
攘夷思想の一環として、外国船に対して攻撃を行う事件が発生しました。
下関戦争(馬関戦争、1863年)
薩摩藩とイギリスの紛争
これらは、攘夷の理念が現実の軍事行動に結びついた例です。
3-2. 薩長同盟と攘夷
尊王攘夷を掲げた薩摩藩と長州藩は、幕府打倒に向けて協力しました。しかし、外国勢力の圧力や国内政治の変化により、次第に攘夷思想は現実的な外交政策に置き換わっていきました。
3-3. 日米修好通商条約と攘夷の終焉
最終的には、幕府が外国との条約締結を優先したことで、攘夷運動は次第に衰退します。現実的な外交・貿易関係を重視せざるを得なかったためです。
4. 「攘夷」の影響
4-1. 日本の近代化への影響
攘夷運動は一時的には外国排除を掲げましたが、結果として日本が国際社会と関わる重要性を認識する契機となりました。幕末の混乱を経て、明治維新が起こり、日本の近代化が加速しました。
4-2. 政治思想への影響
攘夷思想は、尊王思想と結びつくことで、政治運動としても重要でした。天皇中心の国家意識や国防意識の醸成に寄与したと言えます。
4-3. 文化・教育への影響
攘夷思想の背景には、外国文化に対する警戒心がありました。このため、教育や文化政策においても、国学や武士道精神の強化が推進されました。
5. 「攘夷」を理解するポイント
5-1. 単なる排外主義ではない
攘夷は単なる排外主義ではなく、当時の国際情勢や国内政治の中で生まれた国家防衛の理念です。歴史的背景を理解することが重要です。
5-2. 現実主義との対比
攘夷運動は理想的な理念でしたが、現実の国際圧力により次第に実現不可能となります。この点が、幕末の政治的葛藤の重要なポイントです。
5-3. 現代における理解
現代では「攘夷」は歴史用語として学ばれます。単語として覚えるだけでなく、江戸末期の国際情勢や政治思想を理解するための手がかりとして活用できます。
6. 「攘夷」と関連する言葉・表現
6-1. 尊王攘夷
「尊王」:天皇を尊ぶ
「攘夷」:外国排除
「尊王攘夷」:天皇中心の国家を守るため、外国勢力を排除する運動
6-2. 開国との対比
「開国」:外国との通商や交流を進める政策
「攘夷」:外国を排除し国内防衛を優先する政策
この対比は幕末の政治史を理解する上で重要です。
6-3. 薩長同盟との関係
攘夷を掲げた長州藩と薩摩藩が協力し、幕府打倒に向けた政治的動きが加速しました。後の明治維新につながる大きな契機となりました。
7. まとめ
「攘夷」とは、外国勢力や異民族を排除することを意味する言葉です。江戸末期の尊王攘夷運動の中心的概念として、日本の政治・外交・文化に大きな影響を与えました。単なる排外主義ではなく、当時の国際情勢に対応するための国家防衛や思想運動として理解することが重要です。また、開国との対比や、明治維新への歴史的影響を理解することで、「攘夷」という言葉の深い意味を学ぶことができます。
